アトピー奮闘記
第9回 明らかになった食物アナフィラキシー
しかし、皮膚のほうはつるつるになりましたが、三男のアレルギー体質というものは全く治りませんでした。いや、食物アナフィラキシーという、最も危険な形でむしろ強調されていったように思います。それも不思議なことに彼の食べられないものは、卵、乳製品、ピーナッツの三つだけだったのです。忘れられない出来事があります。アメリカに渡って、約1年経ち、日本から私の母と妹が遊びに来ているときのことでした。三男の食物アナフィラキシーが恐くてめったに外食はしませんでしたが、そういう時は特別で、あるイタリアンレストランへ入ったときのことです。例によって何度も何度もこの子は卵とミルクとピーナッツにアレルギーがあるから注意してくれと言ったんですが、そのときの店員が、マカロニのパスタの中に入っている僅かの卵のことをチェックし忘れたのでした。しばらくたってから「やっぱりパスタに卵が使われています。」と言いに来たときには後の祭で、三男はもう何口かそれを食べていました。母親は父親よりはるかに我が子の危険を察知する能力が鋭いもので、次に何が起こってくるかはっきりと予知できたらしく、それを聞いた家内の顔色が一瞬青ざめたのをよく覚えています。三男はだんだん活気がなくなり、唇から腫れ始め、全身に蕁麻疹が出現しました。徐々に喘息のときのような「ゼイゼイ」という音も聞こえ出したので、さすがに私もこれはやばいと思いました。すぐに救急車を呼ぼうという考えが一瞬頭をよぎりましたが、「アメリカでは救急車を呼ぶと4万円取られる。よく知っている、子ども病院は車で10分あれば行けるかな。」というかけひきをして、車で連れて行くことを選びました。車の中で三男の症状は見る見る悪化していきましたので、随分危ない橋を渡ったものだと、今思い出すと背筋がぞっとします。リトルロックの子ども病院は、アメリカ全体のレベルを考えると、そんなにレベルの高いものではないと思いますが、一応休日であるにもかかわらず小児科医が出てきて対応してくれました。予想通り、まずボスミンの注射をして症状を治め、その後、何種類かの皮内反応注射をし始めました。何もこんなときにと思いましたが、向こうには向こうのやり方があるのだろうと、黙って見ておりましたところ、皮内反応注射を続けるうちに、三男の機嫌がすこぶる悪くなりました。アレルギー反応だったのでしょう。たくさん知識をもった今、それを振り返ると、なんと危険なことをしてくだっさたものだと思います。おそらくアナフィラキシーの恐さを知らない若い研修医だったのでしょう。しかし、ただ一つ感心したことは、「エピペン」という携帯用の使い捨てのボスミンの皮下注射セットを何本か処方してくれて、「今度このようなことが起こったら、まずこれを1本使ってから受診してください。」と言いました。ボスミンの携帯用使い捨て注射などという合理的な優れものを見たのは初めてでしたので、さすがアメリカとこのときばかりは敬服いたしました。後に帰国してから、自分が恥ずかしながら知らなかっただけで、当然日本にも「エピペン」の類似物があるだろうと探してみましたが、日本にはありませんでした。きっと日本には、このエピペンさえあれば、アナフィラキシーで命を落とさずにすんだ人がいることでしょう。多少危険を伴っても、自己責任のもとに何でも導入しようとするアメリカと、事なかれ主義で、何か問題を起こす可能性のあるものは、それがどんなに優れものであっても、ことごとく排除しようとする日本の対照的な態度の差を見たような気がします。そのエピペンを処方して頂いてからというもの、1本は車の中、1本はバッグの中、1本は三男の保育園にと、常に身近なところにお守りのように持っているようにして、随分と気分的に楽になりました。実際、そのあと2回、アナフィラキシーを起こしてくれて、エピペンを使用したのでした。1回は教会の託児所でクッキーを食べたとき、もう1回は家でミルクチョコレートを食べたときに。しかし、幸運なことにアメリカ滞在中は、卵と乳製品とピーナッツは厳格に除去していましたが、その他のものは何でも食べて、つるつるの肌をしておりました。本当にアメリカには三男のアトピーを治すために神様が連れてきてくれたようであり、このアメリカ行きがなかったら、彼ははいったい今ごろどうなっていたのだろうと思います。