アトピー奮闘記
第1回 アトピー性皮膚炎の息子の誕生
まさか自分の子がアトピーになり、これだけの労力とお金を使わされるなんて、なんとついてない、と最初は思っておりましたが、そのことによって、自分の医者としての進路、人としての進路が大きく変えられたのもまた事実であります。また私だけではなく、家族全員の認識、進路も大きく方向転換されることになります。そして、アトピーと取り組んでいくうちに、地球の現状や、これから地球がどうなっていくのかということが、恐ろしいくらい客観的にはっきり認識できるようになりました。最近のガン、膠原病、アレルギー、情緒障害の多発、その原因は明白なのにどうして皆これに気づかないのだろうか。気づいていても知らない振りをしているのだろうか。今では、自分や家族の生き方を変えてくれた三男に感謝の気持ちでいっぱいです。
私は岡山大学を昭和63年に卒業し、そのまま同小児科に入局すると同時に岡山大学の大学院に入学しました。5年間かけて小児科臨床の研修と学位論文を仕上げて、平成5年の7月、医局の関連病院の日立造船健康保険組合、因島総合病院に医長として出向したのでした。その間、二人の男の子を授かり、まさに人生順風満帆、そんな時、問題の三男を授かったのでした。平成5年8月14日、家内の実家のある山口県光市で元気な産声をあげました。私は大変幸運なことに、四人の子ども達の生まれ出る瞬間すべてに立ち会うことが出来ました。上二人の子どもは男の子でしたので、当然今度は娘を授かるものという強い思い込みがあり、また、胎内超音波エコー検査でも、男の子のしるしは見えず、そのため、赤いベビー服と女の子の名前だけを準備して、来るべき娘の誕生を心待ちにしていたのでした。私は小児科医でありましたので、何か問題のあるお産のときは、産婦人科の先生に呼び出されていましたが、子どもの生まれる瞬間というものは、いつでも大変な緊張感を覚えるものです。我が子の髪の毛が見え、顔が見え、体が見え、そして全身ツルンと母の胎内から抜け出てくる瞬間は何度見ても大変な感動を覚えるものです。しかし、次の瞬間、その子の股の間に目をやったとき、あるはずのないものが見え、一瞬、わが目を疑うとともに、非常なショックを覚えたのが、今では良き思い出となって、昨日のように思い出されます。
三男のお産のとき、家内の実家はちょうど建て増し中であり、あまりスペースがなく、これはちょうどよいということで、押入れをベビーベッドがわりにされ、その中に寝かされていました。「これはいいアイデアだな」と感心したことが、私の記憶にはっきりと残っておりますが、この記憶が7年後に悪夢となってよみがえるとは、このとき気づくすべもありませんでした。
その三男を二回目に見たのは、一ヶ月たって二人のお兄ちゃんとともに因島の我が家に帰ってきたときです。鼻とおでこにぷつぷつとした赤い湿疹がありましたが、そのうち消えてなくなりました。しかし、いまだにこのことがはっきりとした記憶となって残っていることを思えば、その時、直感的に何か異変を感じたのかもしれません。それから数ヶ月三男はお母さんの母乳を飲んですくすく育ちました。「この子は上の二人と違って本当に手のかからない子だ」というのが口癖のようになり、後に最も飛びぬけて手のかかった子どもという汚名を着せられるようになるまで半年とかかりませんでした。三男が生後3ヶ月ころになった時、また、顔や体を中心に赤い湿疹が出始めるようになりました。「アトピー性皮膚炎じゃないの」と家内は怪訝そうに尋ねましたが、私は「乳児湿疹だよ。軽い軟膏をつけているとすぐ治るよ」といって、非ステロイドの軟膏の処方をしました。確かに湿疹は一時的には軟膏で消えましたが、また出てきて、結局、完全に押さえ込むためには、弱いステロイドを必要とするようになりました。ことここにいたると、流石に私も「もしや」と思いましたが、自分の子に限って、アトピー性皮膚炎なんかになるはずがないという、強い思い込みから、それを何とか否定しようとするのでした。